■ 先日、藤原敬君と二人で、安藤先生宅にお伺いし、御礼のご挨拶を申し上げてまいりましたところ、先生からご丁寧にも下記のお手紙を頂戴いたしました。先生の許諾をいただきましたので、49会の皆様にご紹介いたします。 [小田島新さんより]
前略
本日は49年卒同期会のご盛会の様子をお伺いして、非常に頼もしく感じました。写真に写っている白堊健児と淑女の皆さんが、次なる10年をそれぞれの道で本領を発揮して、頑張っていただきたいと思います。心から期待しております。
また、過分なご芳志とお土産を頂戴し、恐縮いたしております。誠に有難うございました。
「先人に学ぶ」も同窓会開催案内文の中でご紹介いただいており誠に光栄に存じました。
後で案内文の全文を拝読して、昨年の同窓会後に二名の方が急逝されたことを知りました。お名前と顔が一致しませんが、心からご冥福をお祈りいたします。クラスメートに対する幹事さんの温かい心遣いにも敬意を表します。
それにしても、貴重なお休みの日にお出掛け頂いたのに、さっぱりお構いもできず、本当に失礼しました。普段は足の踏み場もない状態の部屋ですが、お蔭様で何年ぶりかで部屋を片付ける機会をいただき、二日がかりでやりましたが(仕分けもせずにとりあえず庭の物置に運んだだけですが)、娘にも部屋らしくなったとほめられました。しかし、いささか疲れ、八十の坂の険しさを改めて感じさせられました。「急がば休まず」が大原則ですね。 調子に乗って、次の書き物についても口走って、宿題を抱えてしまいましたが、何とかチャレンジしてみたいという心境になりました。それにしても気力体力がないとできないことですので、皆さんに負けないよう、適当に(適当でなくなりやすい)アルコールを摂取しながら取り組みたいと思います。
お帰りの際には、雨が降ってきたので玄関口でお見送りをしてしまい、これまた大変失礼いたしました。(私は補聴器を使用しているのですが、精密機械であり濡れると機能が低下するので、雨には神経を使います。横殴りになるとお手上げです。私の聴力の低下は加齢によるものではなく、中学時代にプールがなく川や沼で泳いで両方とも中耳炎になり数回手術したことにあります。手術は長いときは6~7時間、短い時でも4時間くらいかかり、手術台にベルトで固定されるので、身動きできないので腰が痛くなるのと、局部麻酔で手術の痛さに耐えるのとで、忍耐強さを身につけたように思います。つらい経験も何かを与えてくれるのですね。)
話が脱線してしまいましたが、残暑に負けずにご活躍ください。
貴兄のさらなるご健勝をお祈りいたします。ありがとうございました。
不一
平成27年8月22日
安藤 厚
■ 佐藤氏、安藤氏、鈴木氏 県勢功労者に3氏(The Web Iwate Nippoより引用 2008/05/20)
---------------------引用開始---------------------
県は20日午前、本年度の県勢功労者を発表した。前岩手医大学長の佐藤俊一氏(74)=盛岡市松園=、前県教育委員会委員長の安藤厚氏(73)=盛岡市松園=と県中小企業団体中央会長の鈴木宏延氏(72)=大船渡市盛町字町=の3人。表彰式は26日午前10時半から盛岡市東中野の知事公館で行われる。
-----------------------中略-----------------------
安藤氏は教育委員会委員長として社会教育の充実に努めるとともに、文化財や遺跡の保護・整備などに貢献。長年、県立高校長を務め、生徒の学力向上と優れた学校経営の手腕が高く評価された。
-----------------------中略-----------------------
安藤 厚氏(あんどう・あつし)東北大卒。県教育委員会委員を経て05年同委員長。県立産業技術短期大学校長など歴任。73歳。仙台市出身。
-----------------------後略-----------------------
■ 安藤厚先生著「自彊やまず」web版(2006/02/16掲載)
■ 2005年11月19日に安藤先生の県教育委員長就任のお祝い会を理数科メンバー有志で開催しました。お祝い会に対する御礼の手紙に書いてある内容を皆様にも知ってほしく掲載します(掲載日:2005年11月30日)
拝啓
平成十七年もまもなく師走を迎えようとしています。月日の過ぎる速さにただ驚くばかりですが、みなさんお元気でそれぞれの職務に精励されておられることを心から喜んでおります。
このたびは、私の県教育委員長就任に際し、誠に高額なご芳志を頂戴いたしまして、ただただ恐縮致しております。誠にありがとうございました。
みなさんのご厚志を生かすような使途を考え、ご報告するつもりですが、まずは取り急ぎお礼のペンを執った次第です。
今わが国は各方面において再編成が進行中であり、将来の展望がはっきりしないところがありますが、現実的には社会における二極分解が進んでいます。教育の世界も例外ではありません。非力ではありますが、精一杯頑張るつもりです。
みなさんが盛岡一高を卒業された時、私は三十九歳でしたが、現在は七十一歳になりました。自分のこれからの残された人生を生きる指針を考える時、内村鑑三が『代表的日本人』(岩波文庫)の中で挙げている、二宮尊徳に従ってゆきたいと思っています。尊徳の教えは、「報徳訓」に最もよく表われていますが、その最後は次のようになっています。
今年の衣食は昨年の産業にあり、
来年の衣食は今年の艱難にあり
年々歳々報徳を忘るべからず
私が校長時代大きな影響を受けた、哲学者であり、教育者であった森信三という先生は、平成四年(一九九二年)九十七歳で一代の「生」を終えられる前に、二十一世紀の展望の一端を予言されました。
それは、日本の立ち直るのは二〇二五年からだろう。そしてそれは二宮尊徳先生の教えに準拠せねばならないだろう。そして、世界が、日本の立ち直りを認め出すのは、二〇五〇年だろう。そして『二宮翁夜話』こそは、日本人の論語とすべきものであると。
いま、日本の各界の第一線で活躍しているみなさんがそれぞれの『心の書』を持って、大いに活躍されるよう切に願っております。
誠にありがとうございました。
敬具
平成十七年十一月二十三日 勤労感謝の日に
安藤 厚
■ 2004年の30周年大同窓会後に先生からメッセージをいただきましたので紹介します。今後は順次掲載する予定です。(掲載日:2005年1月21日)
3年1組 川村敬昌先生
朝の言葉
川村敬昌
私の手元にワラ半紙を八十枚程綴じたものがある。三十年の時を経たワラ半紙は茶褐色に変色し、ガリ版刷りの文字は古色蒼然として古文書を想わせる。丁寧に扱わないと破れてしまいそうだ。「朝のことば」と表紙にあるこのプリントは三十年前、朝のホームルームの折に生徒に配って一緒に読んだ文章で、先哲や文学者の作品から拾ったことばである。
感受性豊かな青年前期の生徒諸君には教師の好みの押し付けと写ったかもしれない。はじめは張り切って紹介したものの、回を重ねるにつれて材料に窮し、同じ作家を何度も登場させたため己の読書量の貧困さを嘆く羽目になったことを思い出す。
卒業後、教え子から「太宰が多かったですね」と言われ恥ずかしい思いをしたが、少しは印象に残ったのかな、と思って安堵したのだった。
このたび何か思い出を、と依頼されこのプリントのことを思い出した。読むのは本当に久しぶりであった。太宰治の「人間なんてどんないいことをいったってだめだ、生活のしっぽがぶらさがっています」(「正義と微笑」)ということばが新鮮な響きを帯びて伝わってき、このよれよれのプリントが輝いているように思えた。(2004.10.7)
3年7組 安富有恒先生
拝復
白堊旗、手拭、写真とお手紙、ありがたくいただきました。厚く御礼申し上げます。出席できなかったこと、本当に申し訳なく、また、残念に思っております。
もう卒業30周年とは早いものですね。
私もその頃(担任した時代)は、40代の働き盛りでしたが、あれから30年、私も70歳を越えた老人の仲間入りをしております。現在は、岩手県和算研究会の会長と、週1回統計学の講義を頼まれて若い人たちに付き合っております。また、一関市の文化財調査委員もやっており、毎日、結構忙しい日々をすごしております。
記念撮影の写真を拝見しましたが、担任したかつての生徒以外はほとんど顔がわからなくなっておりました。特に女性は全く分かりませんでした(7組男クラ担任のためか?)
これからも何年に一回か同窓会が開かれると存じますが、元気なうちは私も何とか出席したいものと思っております。
どうぞ、お元気でご活躍ください。簡単ながら御礼まで。
敬具
3年8組 安藤厚先生
3年8組の担任から
安藤厚
2年3年の2年間8組の担任をしたが、とにかく元気な諸君であった。運動会の仮装では燃えに燃えた。2年生の時は寝袋を持ち込んだりしながら恐竜を作ったが、あまり大きくなりすぎて、思うように動かなくなった。(何しろ動力はリヤカーであり、タイヤはペシャンコ)
3年の時は精巧を極めた戦車が観客の目を奪ったが、校舎の屋上から降りてくる予定の飛行機が途中で落ちて、あわや怪我人とヒヤッとした。
これだけ打ち込むので、打ち上げ会も半端ではない。どちらの時だったか、ご両親が留守の生徒の家が会場になり、飲むうちにますます元気になって、屋外に飛び出したらしい。校歌、応援歌の斉唱になって、近所の人から通報された。翌朝報告を受けた担任としては一言訓戒せざるをえなくなった。「昨夜はコーラを飲みすぎたようであるが、コーラのビンに入っているからといってコーラとは限らない。中身をよく確かめて飲むように。」
生徒係の尽力により、事なきを得たが、担任は冷汗3斗であった。しかし、時代はまだまだのどかでありました。担任は38歳、今の諸君たちより10歳若かった。
「一事に因らざれば、一智に長ぜず」。中国宋代の僧の言葉というが、一つの事に心を集中しなければ明快な精神の働きは期待できないということらしい。 あの頃の集中力を持ち続けて活躍されんことを。